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柔道の歴史 嘉納治五郎の生涯(1)
- 次回更新日
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- 作者
- 作麻正明⊥橋本一郎⊥講道館
- 出版社
- グループ・ゼロ
- ジャンル
- 青年漫画 ヒューマンドラマ
- 作者
- 作麻正明⊥橋本一郎⊥講道館
- 出版社
- グループ・ゼロ
- ジャンル
- 青年漫画 ヒューマンドラマ
シリーズ
柔道の歴史 嘉納治五郎の生涯(3)
講道館は麹町富士見町時代に入る。血のにじむような稽古と技の研究に明け暮れていた道場生に、明治19年嘉納から警視庁武術大会への参加が発表される。柔道が初めて、天下衆目の前で柔術と戦うときが来たのだ!この大会で柔術を制した講道館柔道は、揺るぎなき地位を確立する。嘉納は講道館・嘉納塾を率いる一方、学習院教頭という公務においても教育者としての情熱を傾けた。明治22年には、教育事情調査のため1年以上に渡って、ヨーロッパ各地を外遊する。その嘉納の帰りを待たず、あの不世出の天才・西郷四郎がひっそりと講道館を去ってしまうという事件はあったが、講道館はますます隆盛を迎えるのであった。
柔道の歴史 嘉納治五郎の生涯(4)
講道館紅白試合で5人抜きを達成した広瀬武夫は、ロシア留学中に芽生えた恋を日露戦争のために妨げられ、戦死を遂げてしまう。しかし講道館にも次代を担う新しいヒーローたちが誕生していった。京都武徳会の主任教授となった磯貝、講道館幹部の一人となる永岡、そして後に10段に上り詰める三船久蔵も、講道館の門を叩く。明治、大正、昭和にかけて、嘉納を始め山下、富田などの門下高弟たちの大きな苦労によって、柔道は海外にも普及して行った。また嘉納は教育界の要職にあって幾多の人材を育てる。なお国際オリンピック委員として、オリンピックの発展に寄与し、戦争のため幻に終わった第12回オリンピック東京招致に成功した。
柔道の歴史 嘉納治五郎の生涯(5)
発展の一途をたどる講道館。明治42年頃には、入門者数も1万人を超すまでになった。大正15年に、女子柔道部が正式に発足する。昭和に移ると、御大礼記念天覧武道大会、皇太子殿下ご誕生奉祝天覧武道大会など、後世に名を留める柔道大会が次々と行われていった。中でも特筆すべきは、昭和5年初めての全日本柔道選手権大会が、明治神宮外苑の特設会場で開催されたことである。国内はもとより、教育視察、柔道の普及活動、国際オリンピック会議出席など、数ヶ月に渡る外遊を毎年のようにこなして行った嘉納だった。しかしこの超人にも遂に終焉のときが訪れる。第12回オリンピックの東京招致に成功し、カイロから帰国する途中、氷川丸船内で体調を崩し、日本に帰り着くことなく逝去した。